本を熱いうちに読む

厚みのある本は苦手

『その島のひとたちは、ひとの話をきかない――精神科医、「自殺希少地域」を行く―― 』を読んだ

 


本日の一冊は「その島のひとたちは、ひとの話をきかない――精神科医、「自殺希少地域」を行く――

 副題そのままで、精神科医が自殺希少地域を旅して感じたことがまとめられた一冊。場所は様々で、徳島県海陽町(旧海部町)、青森県風間浦村外ヶ浜町(旧平舘村)、広島県下蒲刈島(旧下蒲刈町、現在は呉市)、東京都神津島の5か所。それぞれの場所にはそれぞれの特徴があり、どういう場所が自殺希少地域になるのかを考えてたこの一冊は、とてもゆったりと読めた。著者の言葉遣いはとても丁寧で、優しい心がにじみ出ているようだった。

ひとの話をきかない

 タイトルにある「ひとの話をきかない」は、東京都神津島での出来事。別の島からこの島にやってきた男性の言葉だ。

「この島のひとたちは強い。自分をもっている」

私は、ざそ、優しいひとがたくさんいるとか、陰口などがほとんどないとか、そういう話を期待していたわけだが、彼の評価はそうではなかった。

「この島のひとたちは、ひとの話をきかない」

というのである。島が好きかと言うとそう言い切れないようだった。もちろん感謝もしているのだという。しかしとても苦労が多かったのだと。

「たとえば、自分が歌手でこういうひとが好きでと話をしたとしまう。その場では相手もいいねと言う。しかし興味がなければその音楽は絶対にきかない。これまでの人間関係だったらいいねと言ったら少しは聴いてみようかみたいなことになるんだと思うんですよ。でも島のひとは興味がなければ絶対にきかない」

相手に同調することはない。自分は自分であり他人は他人である。その境界がとても明瞭であるというのである。

 自分は自分であり他人は他人である。この島の人はしっかりとした自分を持っていて、周りもまた他人を他人として見て生きているらしい。流されにくいということだろうか。この自分を持っていることがこの別の島から来た人にとっては苦痛だったのだろう。もしかしたら多少流されるぐらいの人間関係で生きてきたのかもしれない。だとすると、このような自分をしっかりと持った人は頑固者として見てしまうかも。

助け合う

 ほかの地域では、人間のやさしさあふれるエピソードが数多く紹介されている。読んでいて目につくのは「助け合う」こと。

最も重要なことはお互いに助け合えることである。困っているひとがいたら困っている部分を助ける。その当たり前のことができないのはお互いをよく知らないからなのだろうと思う。

  これまた別の場所から引っ越してきた人の話が紹介されていて、その人は著者が徒歩で帰るところを見て、車で送っていくか、声をかけるか、迷っていたのだという。前まではきっと声をかけなかったけれど、この地域に来て、人のやさしさにふれて、私も声をかけようかと思った。と話している。

  困っている人がいたら助ける。そんな当たり前のことを当たり前にしている地域だからこそ人と人との距離が近い。この場所に個人情報の保護はほとんど存在しない。雨が降れば家に入って洗濯物を取り込む地域さえある。そもそも鍵が開きっぱなしだったりする。個人情報の保護は効率的に物事を進められる。そしてコミュニケーションをしなくてよくなった。しかし、この地域ではむしろ有害かもしれない。著者はこう考える。

個人情報を保護しなくてもよい地域が生きやすいということなのかもしれない。 

 人と人は結局助け合わなければ生きていけない。助け合うためにはコミュニケーションは必要不可欠だ。それがわかっていたからこそ近所づきあいは存在したのだと思う。いざという時に助け合える関係を作っておく。実際面倒なことや大変なことは起こる。それでもひとは助け合うものだとその地域の人たちは知っていて、何かあったときには助けるという態度を常に持っている。

 今の社会は自己責任という言葉で片づけすぎだと思う。人は1人では生きていけない。何か問題が起こった時に自己責任と言ってなにもしないのはどうなんだろう。そうやってみんながみんな一人で生きていかなければいけない世の中は正直きつい。

「困っているひとがいたら、今、即、助けなさい」 

 著者が島を一周する途中で出会った老人のことばだそうだ。そうして思うのである。今の人は助けないのではなく、助け慣れていないのではないかと。また助けられることに対しても慣れていないのではないか。助け合わなくなったことにより、助ける助けられるが日常的な行為ではなくなった。だから助けようと思っても、迷惑かな、なんて考えてしまうし、助けられる側も、自分でやるから大丈夫と壁を作ってしまう。本当は助け合いが一番よかったりするのに。電車の席の譲りもそうだ。人は席を譲られることに対して慣れていないのかもしれない。慣れていればありがとうと言って座るだけだ。慣れていない人は、老人扱いするなとか、立っていられる、次の駅で降りるからなどと言う。逆に助ける側もどう話しかければよいかと迷うだろう。それがよくわかる例がこの本にはのっている。コテージに泊まっていた著者たちは、食べ物を用意しなければいけないのだが、すでに周りは真っ暗。近くに食べ物屋はなくコンビニに行くも閉まっていた。途方に暮れていてところに小さな会社から出てきた人に食べ物屋を聞いた。すると、「お好み焼き屋でよかったら乗ってきな」と男性たちは言ったそうだ。

「お好み焼き屋でよかったら乗ってきな」

と男性たちは言った。男性たちは私たちに乗っていく?とは聞かなかったから、私たちは素直に甘えることができた。

 このとき、もしも、「乗っていく?」と聞かれたとしたら、ここで心理的な弱い駆け引きがあったかもしれない。乗せてもらえたら助かるけど、本当は迷惑だと思っているんじゃないかなとか。

 こういうやり取りの上達はきっと近所づきあいで得ていくものだったのだろう。しかし今や近所づきあいはなく、人は助け合いの方法を忘れてしまったのかもしれない。

多様性

 他にもこの本で目につく言葉がある。それは「多様性」。さきほど雨が降ったら近所の洗濯物を取り込む地域の話をあげた。この地域の人が都会に住んだときの話である。

同じく雨がふったので、そのひとは近所の洗濯物を取り込んだ。そしたら住人にひどく怒られたというのである。常識がないと。これくらい旧海部町のひとは、近所の洗濯物を取り込むことに気楽である。たいして親しくなくてもだ。

 ただ、このエピソードの興味深いことはまだ続く。そのひとは、それで落ち込むのではなく、

「都会にはいろんなひとがいるんやね」

と、世間にはいろいろなひとがいることを素直に受け止めたというのである。ひとが多様であると知っていることは、生きやすさと関係する事例だと思う。

 そしてもう一つ、東北の青森県風間浦村に行ったときのことである。著者はベジタリアンだそうで、宿のご飯について大変なこともあるそうだ。しかし、この風間浦村の宿では特別何か背負う感じもなく食事を作ってくれたと書かれている。

多様性に慣れている地域は、ひとはそれぞれだと思うことに慣れている。私のような少し変わった面のある者にとっては生きやすいと感じる。

 このような特徴が自殺希少地域には存在する。希少地域といっても、自殺しない人が0ではないし、この地域の特徴に嫌気がさして出ていく人もいる。けれども、今の社会に必要な助け合いと多様性を受け入れることについては、この地域が参考になることは間違いない。終始おだやかな気持ちで読むことができ、生きることはどういうことかを知ることができるその島のひとたちは、ひとの話をきかない――精神科医、「自殺希少地域」を行く―― 」。おすすめです。

 おしまゐ。


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