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本を熱いうちに読む

厚みのある本は苦手

好き嫌いと自由と支配 『「思考」を育てる100の講義 』

思考 教育

 

本日の一冊は「「思考」を育てる100の講義

 

森先生の100の講義シリーズ2作品目。

 

好きなものの評価は見ない方がいい

 

アマゾンで買い物をすると大抵レビューが書かれてある。森先生はレビューを見るものと見ないものを分けた方がいいと言う。

 

アマゾンでよく買い物をするのだが、たいてい評価点がついている。たとえば、冷蔵庫とか掃除機とかであれば、大勢の評価を少し見てみるのも良い。これは趣味で使うものではなく実用品だから、だいたいみんなが同じ目的で使っているためだ。(中略)

しかし、たとえば、ジュースを買うときには、人の評価を見ることはほとんど無意味だ。自分の好きなものが、みんなが好きなものと違うことは、誰でも知っている。

 

まさにその通りで、自分の好きな作品の評価を検索すると、酷評している人を見かけたりする。すると、その酷評している人を酷評するという滑稽なことをする人もいる。自分が好きな作品は自分の中だけで消化するのがいい。

 

映画やゲーム、マンガなど、みんながみんな好きな作品などないのだから、わざわざ酷評しているサイトを見ることもない。好きな人同士が集まるのもよくないと森先生はいう。歴史好きと一括りにしても、徳川家康が好きな人と、石田三成が好きな人が会えば、そこでは関ケ原の戦いが始まるだけである、なるほどな。

 

結局は好きなことというのは、自分一人で楽しむのがよいのか。もちろん好きな人同士が集まるのも悪くない。仲間内で楽しめるならそれがいい。森先生は一人で作業するのが好きそうだから、こう言っているだけであろう。

 

好き嫌いは自己表現か

 

豊かになった社会では、嫌いなものを堂々と嫌いと言って遠ざけることができる。

食べるものが不足していた時代には、「嫌いだから食べない」なんてとても言えなかった。

 

昔は嫌いといっても生きるためには我慢をしていた。嫌いなものを苦手と称し、乗り越えてきた。しかし、今や嫌いなものを嫌いとそのまま言う。そしてその嫌いを排除できる時代になった。それはそれでよい時代になったと思う。

 

しかし、様々な議論に対して好き嫌いだけで話し合っていてはどうにもならないと森先生は仰る。

 

意見というのは、好き嫌いを述べるものではないのに、そうなってしまっている。

 

「自己表現」が下手だ、とよく言われているが、自分の立場、自分の意見というものに、客観的な論理を用いたバックアップを持っていないので、ただ、好きだ嫌いだ、が自己表現だと勘違いしているのである。「表現」とは、他社を説得する行為であることを忘れないように。

 

客観的な意見を持ってきて、相手を説得・納得させることができればそれは表現であり、好き嫌いとは違う論理的なものとなる。好き嫌いは主観的だ。客観的な意見とは真反対。相手がなるほどねと思える意見を言えた時、表現者として一人前なのだろう。

 

話は少し具体的になるが、みんなが良いと言っている作品を見ても、どうもよくないと感じる作品はあるだろう。そういう時、自分の感性がおかしいだろうか、と考えるときがある。しかし、その作品を良くないと感じたことを大事にすることが、自分の感性を研ぎ澄ませるのにはいいらしい。

 

良いと感じられないものを、その対象のせいにするのではなく、自分の感性を顧みることが大事だが、その結果、自分の感性を修正しろという意味ではない。その逆である。自分にはそれが良いと感じられなかった確固とした理由があることを確かめて、自分の感性を防衛すべきである。(中略)

防衛をすることで、次第に個性が確立することになる。

 

嫌いだと片づけずに、どういう理由で嫌いと感じたのかを考え言葉にすることこそが、アイデンティティの確立の手助けとなる。表現というのはこういうことなのだろう。

 

「○○はよかった、好き」「○○見たけどなんか違う、嫌い」という簡潔な言葉で片づけてはいけない。わかってはいるけど、ついこんな簡素な言葉で話し合ってしまう。情けない。

 

今の時代、好き嫌いをネットで簡単に表せることができるようになった。みんなが主に使っているのはフェイスブックだろうか、ツイッターだろうか。

 

森先生はこのようなSNSを使わない。その理由をこう述べている。

 

森博嗣は何故ツイッタをやらないのか、ここに少し書いておきたい。

そもそも、ものを書くというのは、恰好の悪い行為なのである。自分の思っていることをだらだら書くのは、本当に賢い人間のすることではない、と僕は考えている。(中略)なにかを発言すれば、誰かは傷つき、どこかからは批判される。言ったことに賛同してくれる人もいるけど、そんな拍手をいくらもらっても、実質的な利益にはならない。たとえば、一人でも過激な人が批判的に捉え、そのために命を狙われるようなこともあるだろう。その場合、拍手をした人たちがガードしてくれるわけではない。社会に向かって発言するというのは、そういうことなのだ。

 

日本人は寡黙であるべきだという考えをお持ちのようで、ぺちゃくちゃ適当なことを言うもんじゃないと思っているらしい。確かにいらないことを言う人は多い。自分も後から、言うんじゃなかったと思うことはいくらでもある。

 

ついったーというのは思ったことをついつい書いてしまう場所である。そこから炎上する場合もある。それこそ住所や本名がばれた場合には面倒なことが起こるだろう。

 

ネットで発言するということは、そういう危険性があるんだということを理解しなければならない。理解していてもついいらないことを書いてしまう。それならいっそ、ツイッターはしないほうがよいのである。

 

と書いてはみたものの、やはりツイッターはいろいろな人の意見を聞くことができ、面白い人がたくさんいて、見ていて飽きない。やめられないのだ。これは一種の依存症だろうな。

 

 

 

子育て論

 

森先生には二人のお子さんがいるらしいが、どう育てたか、どう育てるべきかを何か所かで述べている。まず、子供には自由と支配を知らなければならないと考えている。 

 

自由の楽しさを味わうためには、支配がまず最初になければならない。支配から解放される時に自由を知るのである。というわけだ。

 

人間の子供でも同じで、「なんでも好きなようにしなさい」「思ったことを自由にやりなさい」と言っても、自由を教えることはできない。

 

何と同じかというと、犬である。犬に自由を教えるために、最初から自由にさせていても、犬はそれを自由と認識しないであろう。まあ自由という概念が伝わるかは置いといて。人間の場合も一緒で、やはり自由というのは自由じゃない状況があってこそわかるものであろう。

 

これは幸せと不幸や、快楽と苦痛と同じで、なにかを理解するためには相反するものを経験しなければわからないということだろう。失って初めてその大切さを気づいたりするのと同じだろう。

 

だから、子供には自由の反対を教えなければならない。

 

子供は自由ではない。自由を目指して大人になる。自由を目指して勉強をするのである。大人は、ただ、金銭的にバックアップして、ニュートラルな知識を与え、そして、彼らの生命を守ることが役目である。さらにいえば、彼らが飛び立つときには、すべてを解放することが使命である。

 

しかし、親もまた人間であり、子供に自由を与えるのは、親の自由である。

 

親は子供の笑顔が見たいものだ。これは親の自由の一つである。それを我慢して、一時は悪者になれるということが、愛情だと思う。甘やかしてしまうのは、つまりは愛情が足りない、と反省した方が良い。子供だけではない、ペットだって、そして自分に対してだって、まったく同じである。

 

自分に対して自由と支配を設定できる人が、一人前として成長していくのだろうか。甘やかされた俳優が少し前に逮捕された。支配を与えず自由を与えてきた結果だろうか。

子育て論を言う人は多い。しかし、子育て論を出している人でも、育てたのは一人から三人程度だろう。その少ない経験人数でこうすべきだと胸を張って言えるのだろうか、とも思う。

 

人が育つには遺伝子と環境が大きく関係する。その中で、たまたまうまくいっただけではないだろうか、とも考えてしまう。子育ては難しい、と心得ることが一番大事だと思ったりする。

 

おしまい。