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本を熱いうちに読む

厚みのある本は苦手

作家のブログは創作 『常識にとらわれない100の講義』

思考 社会

 

 本日の一冊は「常識にとらわれない100の講義 (だいわ文庫)

 

日々思いついたことを100個集めて、まとめて書き記した本。

100の講義シリーズはいまのところ4冊目まで出ています。

 

作家と小説

 

本著には、作家である森先生が考える「小説」について、いろいろと書かれています。

 

まずはミステリィ小説の犯人の動機について。

小説に登場するような動機というのは理路整然としていて、何年もまえに受けた屈辱が原因だったり、恋人を奪われた恨みが元だったりするのだが、そんな動機よりも、何年も手を出さなかったのは何故なのか、という理由も述べてもらいたい。人を殺すような強い欲望をどうして何年も抑えられたのか、その冷静さがあるのに、何故ほかの手を考えなかったのか、そちらの方がずっと不思議である。

 

確かにどうしてそのタイミングで人を殺す判断のしたのだろうか、と思う殺人は小説やドラマの世界でよく見かける。人間は案外冷静で、こうも簡単に人を殺すことはない。それこそリアルの世界では殺人件数は減っている。その中で、「人を殺そう」と考えてしまう精神はどこからやってくるのだろう。

 

ミステリィ小説は日に日にフィクション感が増していっているのかもしれない。そもそも最初からフィクションなんだけど。

 

フィクションは日本語で創作とも翻訳するけど、森先生はどんなふうに書いても疑うミステリマニアでも、出版予告は信じるし、作家がブログに書いたことを真実と思うことをあげて、こう語る。

 

作家が書くものは、すべてまぎれもない創作である。

 

この本もまた、創作であって、本当に森先生がこう思っているかどうかは正直重要ではないのだろう。こういう考え方があるだろうが、どうだろうか。という気づきを与えることが大切であって、森先生がこう仰ってる!なんてことは重要ではない。

 

創作、いわゆるフィクション作品なんだけど、どうしても事実と違うと批判いがちなものがある。時代劇など、過去の時代をテーマにした作品だ。

 

大河ドラマでは、時代考証がとても重要で、当時に存在した食べ物、服装などを考慮して作られている。それでもやはり歯は黒から白だし、話し言葉だって違うだろう。そうやってどこまでをノンフィクションの形をとり、フィクションを取り入れるのか、難しいことだろう。

 

だから、そういう作品に対して、ここが違う!なんてことは言っても仕方がない。創作なのだから。

 

話はさらに逸れるが、銀魂の読者質問コーナーでこのような質問があった。

 

http://cached.static.festy.jp/media/W1siZiIsIjIwMTYvMDIvMTMvMjAvMTcvNDYvMjY1L1hSak1OWDhWSkpJUTF6MV9tVXJnRV8xMzcuanBnIl0sWyJwIiwidGh1bWIiLCI2MjB4Il1d?sha=bb6271e72422d3fb

 

銀魂の時代は幕末だが、そもそも宇宙人というか変なキャラしかいない。こんなの実際に存在するわけないのに。どうしてある一点だけを見て、そこは違うだろというのだろう。もっと俯瞰で見れないのか。

 

小説に話に戻そう。子供のころ、小説を読む経験というと国語の授業だろう。小説を読み、主人公の気持ちを考えたり、話の流れを理解したりするわけだが、試験になると「それ」とは何か、空欄に当てはまる言葉を選べ、最後の問題では、この作品で著者が言いたいことを選べみたいなものがある。

 

これらについて、森先生は小説の読み方はそこにはないと考える。

小説を読んで、「作者の言いたいことがわからん」なんて思う人は、小説ではないものを読んだ方が良い。小説なんて、何が言いたいのかわからないのが普通だし、そもそも何が言いたいのかを求めて読むものではない。

(中略)

小説の主人公が口にすることだって、作者の意見とは違うだろう。なにしろ、作者は、小説の物語を実体験したわけではないのだ。

 

実体験ならノンフィクション作家がいるだろう。作者の言いたいことはノンフィクションにならあるのだろうか。

 

 

 

機械的人間

 

40 マニュアル社会になったのは、安穏と仕事ができる環境を求めた結果には、マニュアル化する人は機械になってしまい、人の話を聞けなくなってしまうという。

 

さて、自分に対してもマニュアル化している人は多い。歳を取るほどマニュアルが多くなって、こういうときはこうする、と自分で決めているものだ。気がつかないうちに、こういうものには喜ぶ、こういうものには怒る、というのも決めていて、ほとんど考えない。(中略)ようするに、プログラム化してしまうわけで、どんどん人間離れして、機械的になっているといっても良いだろう。

 

仕事にはマニュアルが必要だ。だが、プライベートにもマニュアルが必要なのだろうか。こういう場合はこうすると決めつけて、考えないのは人の思考を奪っている。マニュアル化によって考える力は伸びず、さらに思考の質が下がりマニュアル化が進んでいくのではないか。

 

ミスがあったとき一番大切なことは、原因を究明し、それに対処することである。それをして初めて、「申し訳ありませんでした」という言葉に心が込もる。

 

これもマニュアルの一つだろうか。「ミスをしたら謝る」。謝ることは大切だ。しかし、なぜミスをしたのか説明がなければ、納得しないだろう。

東京都知事の問題も結局うやむやのまま終わった。謝罪しかできないのは問題だ。謝る前に問題に対処いればと思う。そうすれば女性都知事も現れなかっただろう。

 

ブログ

 

最後に、ブログについて書かれている項目があったので紹介したいと思う。人間には情報を発信したいという気持ちがある。それは人と話すことによって解消されたりするが、不特定多数の人に俺の気持ちを知ってもらいたいと考えることもある。

 

結果として、ブログやツイッターなど情報発信ができる場所が増え、毎日膨大な情報量がネットを行き来するようになった。しかし・・・。

 

自分のことを知ってもらいたい、という気持ちは多かれ少なかれみんなが持っている。この気持ちが、インターネットの普及で爆発的な数のブログを生んだ。(中略)ただ、みんながそうやって熱心に活動しても、残念ながら人のことを知りたい人間はあまり多くない。

 

自分の情報は発信したいが、誰が君の情報を受信するんだよ、という状態が生まれている。それこそ毎日ブログを更新しても来る人が一桁、二桁なんて人がたくさんいる(私のようなブログだ)。

 

確かにたくさんの人が来てくれたら嬉しいのだが、私のサイトにそのような魅力はないので、仕方がないと考えている。思考や表現力の練習の場としてこの書評ブログは運営しているので、何人来ようが来まいが気にすることもない。

 

このブログは今日も底辺を歩んでいくのである。

 

おしまい。