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本を熱いうちに読む

厚みのある本は苦手

ゆとり教育と子供の言葉遣い 「大学の話をしましょうか」

 

Q 本書を読んだ人にどんなことが伝われば良いとお考えですか?

 

A それも、読む人それぞれによって違うと考えています。僕は、こういう視点もある、という一例を示すことしかできません。

 ただ、僕がひとつだけいえることは、素直に考える。自然に考える。ということでしょうか。

 

本日の一冊は「大学の話をしましょうか 最高学府のデバイスとポテンシャル 

 

推理小説を多く書かれている森博嗣さんの大学論。

 

もともと名古屋大学で教鞭をとっていた方で、自身が考える大学についてインタビュー形式でまとめられています。

 

ここでは特に1章の学生論のQ&Aを3つほど紹介していこうと思います。

 

Q 昔に比べて今の学生はここが悪くなっている、といった点はありませんか?

 

この本は2005年に出版されていて、すでに10年経過しています。ただ、森先生はこの時の答えとして、ビリにならなければ良い社会と述べていて、今も10年前もさほど学生の価値観は変わっていないのではないかと思います。

 

今では、人に先んじる必要はない。まあ、適当にやっていて、群から極端に遅れるようなことがなければ、なんとかなる。ビリにならなければ良い、という社会なのです。だから、どうしたって、ハングリィな精神は生まれないでしょう。

 

大成功をおさめなくても、ほどほどに豊かな暮らしを送ることができる今の社会では、上に行くことよりにも、下に行かないことに重点が置かれているように感じます。

 

下に行かないために、中流をいかにキープするか。上に行けるかわからない時代だからこそ、いかに今の豊かさを維持するか、そこに力を注いでいるのでしょう。

 

Q 最近の学生に話を戻しますが、「学力の低下」ということが教育に関しては必ず問題になっているようですが、それに対してはどのようにお考えでしょうか?

 

ゆとり教育」によって学力が低下したとよく言われます。特に、今の20代は「ゆとり教育」によっていろいろと問題あり!と言われますが、まあいつの時代も若者には問題があるのではないかと思います・・・。

 

この質問に対し、森先生は、「ゆとり教育」をした結果、子どもに「ゆとり」があるなら、この教育に成果はあったのではないかと、そもそも学生が身に付けるべき「力」とはなんなのかと、問題点はどこにあるのかについて述べています。

 

まず、「学力」とは何か、という点です。それを議論することは大事です。学生が身につけるべき「力」とは何か、ということですね。また、学力が低下しているかわりに、それこそ「心のゆとり」が増加しているならば、それはひとつの成果ではないでしょうか。

 

森先生は、逆に向上している力について、文章力を挙げ、今求められる力として、考える力を挙げています。

 

ゆとり教育学力低下をつなげて論じられることが多いですが、確かにゆとり教育によって「ゆとり」ができたとすれば、それはそれでよかったんじゃないかと思いますね。

 

ただ、その「ゆとり」が何なのか、どうやって測ればいいのかが曖昧なため、どうしても学生の「学力」が上がった下がったでしか見ることができず、脱ゆとり教育として、また学力をあげるという方向に向かってしまうのでしょう。

 

ちなみにゆとり世代が受けている大学教育は戦後最高水準に高度(ソース不明)らしいですよ。この他に色々とゆとり教育時代にはセンター試験難易度が過去最難や、数学五輪、化学五輪などで過去最高の成績を収めるなど、輝かしいゆとり教育の結果が2chとまとめアフィサイトにまとめられています。

 

こうなると、ゆとり教育によってできた「ゆとりの時間」があったからこそ、興味ある分野に力を注ぐことができて、伸びる人はどんどん伸びて、逆にその時間をゲームやマンガなどの娯楽に注いだ人は学力が低下しただけなんじゃないかと。

 

もしゲームやマンガ、そのほかの娯楽がなければ学力は向上していたのでしょうか。

 

時間をどう使うかについての授業をしたほうがいいなーと思ったり。

 

Q 学生の言葉遣いで気になることはありませんか?

 

あまり感じない。と森先生は仰っています。大学生は立派な大人なんだから、先生も学生に対して丁寧な言葉遣いをするべきだと述べるほどです。

 

さらには、子供の言葉遣いについても思うことを述べていて、「あーなるほどな」と思ったところがあるので長いですが、引用しておきます。

 

そもそも大学生というのは、もう大人なのですから一個人として対等に向き合う必要があります。(中略)幼稚園児や小学生に対してでも、「どうしたの?」ではなくて、「どうしたのですか?」と尋ねる。「静かにしろ」ではなくて、「静かにして下さい」と言う。そういう言葉遣いを耳で聞いていれば、子供のときから、自然に丁寧なしゃべり方になるでしょう。ところが、子供がお母さんに「お腹が空きましたので、ご飯を食べたいと思います」というしゃべり方をすると、「なんだ、子供らしくない嫌な感じだな」という印象を持つわけです。そういった感覚が既に捩れています。子供らしさとは、言葉遣いが拙いことだ、と短絡的に認識しているわけですね。これは、換言すれば、子供は馬鹿な方が可愛い、という意味になります。(中略)乱暴な言葉遣いをしても、幼稚園児や小学生には叱らないのです。それなのに、中学、高校生くらいになると、とたんに「口のきき方がなっていない、大学生にもなって敬語もしゃべれない」と言うわけですね。

 

いつごろからか言葉遣いが悪いと注意される。その境目はよくわかりません。子供が子供に見えなくなると言葉遣いが悪いと思うのでしょうか。

 

確かに4歳児がご飯を食べたいと思いますなんて言い出したら、お?どうしたんだと思ってしまいます。

 

某寺田心くんもバラエティ番組だと敬語を使っていて、違和感を持つ人も多いのではないでしょうか。彼の違和感はその敬語というより計算高い発言だと思いますが、やはり子供が敬語を使っていると少し不思議な感覚になります。

 

それなのに小学生高学年や中学生で敬語を使ってもなんら不思議はなく、むしろ言葉遣いがおこちゃまだと怒られます。

 

だったら最初から敬語を教えた方がいいのに。となりますね。

 

結局「子ども」というかわいらしい個性を大人が消費?しているからこそ、言葉遣いが悪くてもかわいいで許されてしまうのでしょう。

 

小さなお子さんに対しても丁寧な言葉遣いで接しようと思う、大学論の本でした。

 

おしまい。