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本を熱いうちに読む

厚みのある本は苦手

"才能"は努力に変わり、"いま"はいつか 「不明解日本語辞典」

考えるといっても言葉で考えるわけで、言葉を言葉で考えるのでは対象と手段が同じになってしまい、いきなりつんのめる感じである。 

 

本日の一冊は「不明解日本語辞典

 

32の言葉について、言語学者が考えたことをぼやいて書かれた一冊。本書の「はじめに」からすでにぼやいています。

 

言葉を言葉で考えるとおのずとぼやくことになるのだろうか。

実際、私もこうして随分ぼやいている。ぼやいているだけでは仕方がないので、ぼやいている時に私の身に起きていることを内省してみることにしよう。

例えば、「ああ、無理だなこれは」とぼやくとする。誰に言っているのかというと、私自身に対して言っている。同一人物であるはずの私が私に言っているわけで、よくよく精査すると、ぼやくことでそこに「言う私」と「言われる私」という分割が生じている。「もうひとりの私」などとよくいわれるが、私はもうひとりの私に言おうとしているわけではない。ただ言うことによって、そこに「もうひとりの私」なるものが生まれてくるのである。

 

このあとも、言う私と言われる私について長々とぼやいてあるわけですが、何が言いたかったのかよくわからない。

 

言葉の難しさを、言葉を読んで感じ取る。そんな感じの一冊でしょうか。

 

 才能

32語の中には「あ」「ちがう」「リスク」「つまらない」「社会」などよく言葉として発する言葉があげられています。

 

その中の一つに「才能」があります。

 

才能と言われるとスポーツ選手が思い浮かびます。スポーツの才能がある。じゃあこの才能とは一体なんなのでしょう。

 

たまたま目にしたアメリカ映画『フェイク・クライム』(原題『HENRY'S CRIME』マルコム・ヴェンヴィル監督)に次のようなセリフがあった。

「上手だったわ。本当よ。才能あるの」

舞台女優が恋人の男性に台本を読ませると、意外に上手で彼女が感心するというシーン。これはあくまで日本語字幕のセリフで、実際はこう言っていた。

Really good, he is natural.

 

「才能がある」=「Natural」

 

ナチュラル。つまり、自然にできることが才能があるということ。

 

自然にできるということで、いうなれば「できちゃう」ということだったのだ。

 

確かに、方法を教えなくても、見ただけでできる人はいますね。

 

そしてこの「できちゃう」ことが才能と呼ばれるようになり、とても貴重なことのあるかのように捉えられてしまう。

 

彼らは「才能も超一流」「類い稀なる才能」(中略)などと形容されている。「できちゃった」のなら、そこで終わりにしたり、他の道に進むことも考えられるのだが、「才能」となるとそうはいかない。「才能を伸ばす」「才能を磨く」「才能を生かす」、さらには「せっかくの才能を」「才能を持って生まれたのだから」という具合に、ある種、責任が生じるのだ。

 

例えば、サッカーのテクニックを一度見ただけで、真似ができちゃったとしよう。そこで、できちゃったわーで終わっておけば、その人の特技の一つとして終わるわけです。

 

しかし、そのできちゃったことを「それは才能だよ」なんて言われてしまうと、そこには、その才能を活かさないと勿体ない、才能があるんだから伸ばすべきだよという周りからのプレッシャーが発生して、才能を磨かないとどうしてお前は才能を殺すんだと思われてしまう。

 

そして才能がある人はそこから、血のにじむような「努力」をして才能を伸ばすことになる。始めは「才能」だったのに、いつしか「才能」で埋めることができず、「努力」が必要になる。

 

そうやって努力することを押し付けられた才能ある人たちは、周りに翻弄されて生きていくことになるのだろうか。

 

 

 

 いま

 

いまとは一体なんなのか。

 

いまを生きようとしても「いま」だと思った時には、すでに状況は「いま」ではなくなっており、思った「いま」を追いかけていくと、どんどん後ずさりしていくような感覚に襲われるのである。

 

じゃあ、いまはいったいいつなのか。

 

「いま」の最後を著者はこう締めくくっています。

 

「いま」は「いつ」なのか、と考えるまでもなく、「いつ」も「いま」なのである。

 

よくわからない。「いま」は「とりあえず」に置き換えることができて、「いまを生きる」ことは「とりあえず生きる」ことだよーなんてことが書いてありますが、結局いまって何なのか。

 

言語学は難しいなと感じます。

 

まあ私が気になったのはこの「いま」が「いつ」なのかではなく、人間は気づくまでに0.5秒かかるという事実。

 

『マインド・タイム』によれば、脳の電位変化などを計測してみると、人間は感覚刺激の「アウェアネス(気がつくこと)」に0.5秒もかかるのだという。つまり主観的な経験は、実際の感覚刺激から0.5秒も送れている。(中略)私たちは現実の0.5秒後を感じているわけで、それを「いま」だと思うのは一種の勘違いということになるのだが、脳には「感覚経験の主観的な時間遡及」という機能があるらしい。アウェアネスは0.5秒遅れているにもかかわらず、脳は時間を遡及し、まるで前から気づいていたかのように記憶を修正するそうなのだ。

 

我々が認知する「いま」はすでに「いま」ではなくなっている。

 

いまという瞬間は存在しているはずなのに、それはすでに0.5秒後であって、それをいまと認識している。

 

今でしょ!という今すら過去になっていて、時間は止まらないという事実を目に向け、今できることをしなければと思ったりもする。

 

そもそも「いま」について考えることが間違いかもしれない。

 

眼で捉えることができない「いま」という時間を言葉という固定化されたもので見るというのが無理だったのかもしれない。

 

こういう考えが言語学者のぼやきになっていくのだろうか。

 

おしまい。